田舎文学
こんにちは、上島町島おこし協力隊の西尾です。
降ったりやんだりの雨が続いています。気圧の変わり目はとても疲れますよね。
島の雨はとても気分屋で、穏やかな雨だと思ったら急に大雨になったり、昨晩はスコールかよってくらいの短くて激しい土砂降りもありました。
雨の景色の中では、自然のあらゆるものが非常に繊細に見えて美しく感じます。山歩きをすると露が輝いて、海を眺めると島が霞んで儚くて。
そんな気分の中、昨夜は久しぶりに詩集を読んでいました。
ウィリアム・バトラー・イェイツ 「イニスフリーの湖島」
イェイツは、おおよそ100年前のノーベル文学賞作家でとても素晴らしい才能を持ち、都会で、言語の世界で活躍してなお、ふるさとの田舎の暮らしに懐かしさとあこがれを抱えていた人なんですね。
都会に出ても、どんな道の上でも、その湖の景色、音、そんな昔の記憶が心を支配しているのです。
私たちのような移住者であったり、Uターン、都会にお住いの方にはお勧めできると思います。いろんな翻訳でインターネット上でも読むことができますので、読んでみてくださいね。
イニスフリーの湖島 で作者は小屋を建てて、豆を育てて(畑を作って)、蜜蜂を飼って、、そんな森に一人でひっそりと暮らしたいという夢を描いています。
私は、島で蜜蜂を飼育して、野菜を育て、花やハーブ、少しばかりの果実も植えていますが、この暮らしがどれだけありがたいことか、素晴らしいことか、実感できるような気がします。
さて、「農業」についてはまた今度ということで、自然昆虫のお話です。
自然昆虫の中でも、蜜蜂がとりわけ人間を魅了してきたのはきっと、蜂蜜が採れるからというだけではなくて、そういう因果の関係で、蜜蜂に対して人は心の距離を縮めてゆくように働きかけていったからだと思います。
変な話ですが、ゴキブリ研究者がゴキブリを愛するように、ダニ研究者がダニを愛するように、蜜蜂への一方的な愛情なんですよ。
実際、蜂蜜愛好家と蜜蜂愛好家はそれなりに独立して存在しています。養蜂は好きだけど蜂蜜は食べないという人はかなりいますからね。蜂蜜はほしいけど蜂は飼いたくないという人もたくさんいますし。
また、言葉に変えてしまうと伝わりきらない非言語によるコミュニケーションが、蜜蜂と飼育者の間で成立してゆく、この面白さがあったんじゃないかなと、思いめぐらすこともできます。
イェイツがノーベル文学賞を受賞した数年後、モーリス・メーテルリンクという人がノーベル文学賞を受賞しています。メーテルリンクは文学者であるだけでなく、蜂の研究者でもありました。自身で蜜蜂を飼いながら、当時では驚くような鋭い観察眼で蜜蜂を観察して文章に起こしました。 言葉を持たない生き物に、文学者たちが魅了されてゆくというのはとても面白く思います。
話は大きく変わるのですが、「健康」という言葉について、この「健康」という言葉一つをなぞる時、その言葉の感触はみんな違います。
それは、健康という言葉がどこに接続されてゆくかによって変わってゆくのだと思います。
「私の幸せ」なのか、「エコ」なのか、「未来、子孫への希望」「自然生物全体の幸福」…なのかということですね。
養蜂では蜜蜂の健康を管理しますから、 健康=「未来、子孫への希望」「自然生物全体の幸福」を指すことになるでしょうか。まぁ、いろいろです…。
ですが、このモーリス・メーテルリンクは自身の随筆、「智慧と運命」というとても影響力のあった著書の中で、人間の幸福について、まずは自己を愛せということを書いています。
「他者のために生きる以前に、己れ自身に生きる力がなければならない。自己を捧げる以前に、まず自己を持たなければならない」
ということを書いているのです。同著書では、全体的に同じようなことが書いてあります。
こういう言葉に表れている彼の説得力はきっと、人間の思考に準じているのではなくて、蜜蜂の暮らしの姿、自然生物の姿に由来しているものだと思います。
蜂児が病気にかかると、群れを守るために親蜂は蜂児を容赦なく捨てるし、食べ物不足の時も同じように容赦なく捨てるんです。
人間がそれと同じことをするわけにはいきませんが、人間と同じ言葉を持たない自然昆虫の非言語によるコミュニケーションや、自然生物とのつながりの意味をもつヒューマンアニマルボンド、そういったことに対して、人間は新たな幸福を見つけることができるということなんです。
人が心を寄せて、共に暮らしてきた蜜蜂の暮らしの風景から学ぶ命の思想、そんなふうに感じられるのです。
ウィリアム・バトラー・イェイツの詩が胸に響くわけです。